「仕切り直し」も14年目が終わろうとしている今日この頃、表題の年となることが決定いたしました。何がって、「人生にやる気のなかった日々」がない年ですよ、ファイルに欠番がない年。少なくとも半月に1度は書いたということで。いや、ひそかに今年の目標だったんですよ。達成できてよかった。
復活のニフティ寄席第2回に行ってきた。終了前の最後の公開寄席が3月だったので、意外と復活早かったなーという感じ。録画機材は入っておらず、とりあえず音声のみの配信になるようだ。いつも満席だったのにちらほら空席が目立って、終了前までは聴いていてまだ復活に気づいていない人も多いのかも。特に宣伝しているふうでもないし、わたしが復活に気づいたのも東京かわら版の演芸会情報にひっそり入っているのを見てだったしなぁ。
林家たけ平「竹の水仙」、古今亭朝太「干物箱」、「妾馬」桂才紫、「夜鷹の野ざらし」鈴々舎わか馬、前座は柳家小んぶで「子ほめ」。鈴々舎わか馬は来年秋の真打ち昇進が決まっているけれど、ニフティ寄席にはあと何回出てくれるだろう。しかし、歌うまいなー。
23日、川柳噺の会へ。場所は浅草見番 二階舞台。見番というのは要するに、料亭と置屋とを仲介するところらしい。その2階にしつらえた舞台というより芸妓のための稽古場か。練習用の三味線を納めた棚なんぞもあっていかにもな風情。畳敷きに座布団だったので、足を曲げて座るのが苦痛なわたしとしては、一度なら好奇心優先でOKでも、二度は行きたくない会場であった。ソファも置いてあったのだがほんの4、5人程しか座れないもので、本当に膝が悪い老人を押しのけてでもというほどではないのでね。→見番とは?
川柳つくしの川柳をネタにした新作、川柳川柳の「歌は世につれ」(だと思う、多分)、差別用語の言い換えをネタにした川柳と柳家三三との対談、三三の「八九升」、川柳の「涙の圓楽腺」。初めて「ガーコン」じゃないネタを生で聴けたよ……!
「八九升」は三遊亭圓生の一門で最初に教わる噺だが、聴覚障害者をネタにしているため寄席ではまずかけられない演目。ちょうど先日、げんき一番! 第116回「川柳つくし的落語修行」でつくしが初高座に「八九升」をかけたら席亭からそれはやめてくれと言われたというエピソードを聴いたところだったので、実際どんな噺なのか聞けて興味深かった。三三がマイルドにアレンジしたのかもしれないが、これで差別だNGだというのはどうなんだろう。できないことをできないと認められない人間の見栄(ええソファに座らず我慢してその後数日痛みが残っているとか)のおかしさと思えば、そこまで忌避すべき噺ではないような気がしたのだけれども。
「アバター」(ジェームズ・キャメロン監督)を見てきたですよ。下半身不随の主人公が、自由に動き感覚のある足を手に入れたときの高揚感、そこから元の体に引き戻されたときの喪失感の描写がストーリー的には最高潮で、あとは予想から1mmたりともずれない定型なのだがまあそれはよしとする。そこに期待する映画じゃないしな。しかし、アメリカの白人っていうのは21世紀になってもまだあの手の幻想から離れられないのね。
で、期待するところの3D映像であるが、「おお」と思ったのは序盤だけで、見慣れてくると立体的であることを意識しなくなってくる。人間の適応力ってすごい。序盤は突起物をしょっちゅう客のほうに向けてみたり(ナヴィの尻尾なんて、最初にアバターとリンクしたとき立体的に振り回してみせるためだけに付けたとしか思えない)、ゴルフボールを客席のほうに転がしてみたり、わざとらしくも楽しそうに3Dを強調した演出が多く、中盤以降はそうでもなくなってくるというのもあったかな。しかし3Dメガネは重いし、とてつもなく疲れる。頭痛がするほどのひどい肩こりは久しぶりだ。
どーでもいいけど、コミュニケーションのための器官としてせっかく触手みたいなものを出しておきながら、男女の契りの場面で普通の人類みたいにキスしているとか、アメさんはエロチシズムってものがわかっていないとつくづく思ったことであるよ。